1.ユダの死(2−10節)
・ユダはイエスが死刑判決を受けたと聞いて後悔し、金を戻しに行った。しかし、罪は金を返しても購われない。罪が購われるのは神が赦されたときだ。
―マタイ27:3-5「イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」。
・ユダとペテロは何が違ったのか。同じように罪を犯した。しかし、ユダは神の赦しを求めようとせず、自分で始末しようとした。ペテロは外に出て泣き、赦しを求めた。ユダは後悔し、ペテロは悔い改めた。
―?コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」
2.ピラトの裁き(11−26節)
・ユダヤ人はイエスの死刑を宣告したが、彼らには死刑執行権はなかった。だからピラトにイエスはローマへの反逆者だと訴えた。だからピラトはイエスに「お前はユダヤ王を騙ったのか」と聞いた。
―マタイ27:11「イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』と言われた。」
・ピラトの関心はイエスが有罪かどうかではない。民が何を求めているかであった。だから民に聞いた。
―マタイ27:15-18「祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。・・・ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。』 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」
・民衆はイエスの死刑を求めた。イエスが民衆の求める救い主でなかったからだ。
―マタイ27:21-22「総督が『二人のうち、どちらを釈放してほしいのか』と言うと、人々は『バラバを』と言った。ピラトが『では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか』と言うと、皆は『十字架につけろ』と言った。」
・イエスを殺したのは祭司長でなくピラトでもなく、エルサレム入城でイエスを歓呼して迎えた民衆であったとマタイはここに記す。水野源三は次のような詩を残している。
―水野源三「ナザレのイエスを十字架にかけよと要求した人、許可した人、執行した人、それらの中に私がいる」
・源三は自らの病を通して罪を知っていた。罪を知らない人は自分がイエスを殺したとは思わない。マタイ27:25は後世のユダヤ人迫害の根拠とされた言葉だ(「神の子を殺したユダヤ人は殺しても良い」と教会も言った)。
―マタイ27:23-25「群衆はますます激しく『十字架につけろ』と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、私には責任がない。お前たちの問題だ。』 民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある。』」
・イエスはこの騒動の中で一言も言われなかった。祭司長たちの罪も、ピラトの罪も、民衆の罪も皆自分で負われるつもりだったからだ。愛とは、何も言わず相手の重荷を負うことであることをイエスは私たちに示された。
―イザヤ53:11-12「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、私は多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」
・私たちもキリストに従いたいのであれば、これに習うしかない。キリスト者とは相手のために自分が損をすることを喜ぶことが出来る人のことだ。
―?コリント6:1-7「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。・・・兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」